ジムと社会
学生時代、体育教師のおかげですっかり運動が嫌いになっていた。
雪の降る日に長距離走を強要してきた魔女みたいな小学校の先生も、
発育の良い女子中学生の体を触ることしか考えていなかった浅黒い野球部の顧問も、
42.195キロ走りきらないと卒業できない高校の謎の文化も、
すべてが自分の運動への価値観を捻じ曲げるに足るものだった。
モラトリアムを経て自己承認欲求と自己肯定感の狭間を13往復くらいしたころに社会人になっただろうか。
すっかりと、どっぷりと、浸かっていた軽音人たちとの交流がひと段落し、いわゆる社会というものに放り投げられた自分は、世間が筋肉を信望する様をまざまざと見せつけられることとなった。
決して筋肉最高!と声高に叫ばれているわけではない。
気づかないうちに人々が、皆、筋肉に支配されているのだ。
酒に酔った女は男の筋肉を触り、筋肉のある上司の言うことには説得力が宿り、仲里依紗は今日もインスタでジムのストーリーをあげている。
前髪の重いヒョロガリがもてはやされたあの社会は、ただの広大な宇宙の中のちっぽけな豆粒にも満たないものだった。
椎木知仁がマツコ・デラックスに酷評されたあの瞬間。あれが社会だ。
この際、歪んだ学生時代の価値観を捨てて、筋肉と向き合ってみることにした。
ジムに通おう。
初めてのジム体験は2月、留学というには短すぎるフィリピンでのものだった。
クラスメイトのタトゥーがイカす彼に連れてきてもらったそこは、別に中山きんに君が闊歩しているわけでもなく、いたって普通の、ちょっと汗臭いだけの空間だった。
週に2度、クラスメイトを裏切らないための、社会性を保つための行動と化したジム通いだった。
運動嫌いがそう簡単に直るわけでもなく、毎秒帰りたかった。
2週間くらい経つと少しだけ身体に変化が訪れた。
前腕が少し筋張って見える。
どうやら運動直後は少し筋肉が大きくなるらしく、気分を良くして鏡の前でポージング等してみる。
鏡が映す身体は実年齢20代前半のそれとは大きくかけ離れたもので、それは白いデブがプルプルと脂肪をゆらしているだけの非常に滑稽で無様なものだった。
人間何週間か続けると習慣化するだのなんだのといった話をきいたことがあるが、あれは嘘だ。
日本に帰るとすぐにジムに行くことはなくなった。
理由は上げだすときりがないし、多分アベ政治が悪いんだろう。
まぁ、ジムに行かずとも社会性が失われることがなくなったことが大きいだろう。
春になって東京にやってきた。
おのぼりさんである。
住みだした家の近くにはジムがあり。財力を手にした気になっていた自分は完全に勢いだけで入会した。財力は持っていると思っていただけだった。
早6か月続いている。
絶対やめると思った。普通やる気に満ち溢れているはずの入会直後ですらそう思っていた。
どうやら続けるうちに、積み重ねてきた脂肪の下の筋肉を失うことが怖くなった。
加えて、見えない社会の力が働いた。
3か月くらいして体ができてくると、おそらくジムに通うことを生きがいにしているであろうマッチョ君からすれ違いざまに「デカいね」といわれるようになった。
めちゃくちゃ煽られているのかと思ったが、どうやら誉め言葉らしい。
それ以来、マッチョ君その1~その4あたりとジム話をするようになった。
再びジムに社会性が宿った。
フィリピンにいたときほど直接的な社会性があるわけではなかったが、慣れない町東京に一刻も早く受け入れてもらいたい、社会性ポケモン、自分、にとっては十分な動機となったのであった。
今でもジムは嫌いである。
ジムサイコー、なんて生きてる間に口にすることはない気がするが、ジムリーダーにはきっとなることはないが、
今はたまたま、やっているだけ、それだけ。